西都は古代日向の都として栄え、その後も政治・経済の要の地として、日向の歴史に大きな役割を果たしています。
その歴史は各所に現存する史跡や文化財から垣間見ることができます。民族文化は庶民の生活と深く関わり、歴史を重ねながら受け継がれてきました。神々への信仰や五穀豊穣の祈願、山村の暮らしを伝える神楽は、庶民の憩いであり、安らぎとなり深く根づいています。
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南北朝時代建武2年(1335年)、伊豆から下向した伊東氏が高屋山上陵伝承地の都於郡の地に築いた山城で、以来242年にわたり日向の地を治めた伊東氏累代の居城としてその栄華を極めました。標高100mの台地にあり、廻りを急峻な断崖に囲まれ、西北方は三財川が外堀の役割を果たし、五つの城郭から構成された堅固な城で、遠くから眺めた様が、舟が浮いているように見えたところから、別名「浮舟城」と呼ばれています。 |
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![伊東満所[マンショ]](img/bun-mansyo.jpg) |
伊東満所(マンショ)は都於郡城に生まれ、13歳で天正遺欧少年使節団としてローマへ渡り、日本と西欧の親善に大きな足跡を残した西都が誇る郷土の先師です。 |
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山路毘沙門天立像
(やまじびしゃもんてんりつぞう) |
県指定 |
毘沙門天は多聞天とも呼ばれ、四天王の一つであり、もともと仏教の守護神であったが、時代の推移とともに独立して信仰の対象として崇められるようになった富と幸福を招く仏。
都於郡第13代城主伊東三位入道義祐が、都於郡城の北方鎮護の神として京都鞍馬寺から勧請して、上山路寺を造った時に持ち込まれた本尊と考えられています。 |
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日向国分寺跡・木喰五智館
(ひゅうがこくぶんじあと・もくじきごちかん) |
県指定 |
聖武天皇は仏教への帰依が深く、仏教によって国家の理想を実現するという鎮護国家の方針から、全国に国分寺及び国分尼寺を建立しました。
日向国分寺は8世紀中頃に建立された官寺です。その跡地には、江戸時代、遊行像を安置するための木喰五智館が建てられています。 |
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三納の中心地から北方3.2Kmの山頂にあり、その御堂には十一面観世音と脇侍の聖観世音及び勢至菩薩像が安置されています。
大永2年(1522年)の大火により、寺は宝物・古文書などほとんどを失いましたが、三尊像は頭部のみが無傷で残りました。現在の御堂は昭和56年地元の人々の浄財により再建されたものです。 |
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銀鏡神社の大祭で、12月14日の夕方から15日の朝にかけて徹夜で舞い続けられる神楽で、国指定重要無形民俗文化財。
祭殿には1週間以内に獲れた猪の頭を供える習わしがあります。神楽は33番からなり、1番「星の舞」は13日に奉納されるので、14日は2番「清山」から始まります。狩法神事の32番「シシトギリ」が舞われ、最後に歓請の諸神を送る「神送り」の舞をもって奉納神楽のすべてが終わります。特に「シシトギリ」は猪の通った足跡を訪ねる様子を表したもので、焼畑と狩猟生活が中心であった時代のことをよく伝えています。 |
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下水流臼太鼓踊り
(しもずるうすだいこおどり) |
国選択県指定 |
南方神社・一ツ瀬川原・下水流公民館で奉納されます。他の地区の踊りに比べテンポが早く、動きも活発で、激しい飛躍により神の魂がしだいに鎮められていくと伝えられています。 |
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毎年11月下旬に、尾八重神社の大祭に奉納されます。 「しめ上」から「舞上」までの33番からなり、特に「四人神崇」は東西南北の四方神の鎮める舞で、太刀を持って魔を払い無事を祈ります。 |
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石野田臼太鼓踊り
(いしのだうすだいこおどり) |
市指定 |
江戸時代、肥後の細川によって地区の若者たちに伝授されたと伝えられ、石野田地蔵境内にて、豊作祈願の虫追い踊りとして、また、現在は火除け踊りとしても奉納されます。 |
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戦中戦後の約20年間途絶えていた中山棒踊りは、昭和45(1970)年に復活し、現在は、毎年11月22日に中山神社大祭に牛馬安全と五穀豊穣を祈って奉納されます。 |
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五穀豊穣や悪疫退散などの神に祈る勇壮な踊りで、旧暦の9月9日、龍房山中腹に陳鎮座する霧島様(霧島神社)大祭に奉納されます。 |
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平郡十五夜踊り
(へぐりじゅうごやおどり) |
市指定 |
旧暦8月の十五夜に近い土曜日に鉦の音に合わせて踊られる太鼓踊で、手甲、脚半袢、かすり姿の女性が優雅に踊ります。 |